戊辰戦争とは何か?鳥羽伏見から五稜郭までの激闘と勝敗の真相【徹底解説】

戊辰戦争とは何か?鳥羽伏見から五稜郭までの激闘と勝敗の真相【徹底解説】についての真相を徹底解説します。

平和的な江戸開城の影で、凄惨を極めたのが東北戦線、とりわけ「会津戦争」でした。

京都守護職として新選組を統括し、薩長過激派を取り締まっていた会津藩主・松平容保は、新政府から最も苛烈な敵視の対象とされました。容保は何度も恭順嘆願書を提出したものの、新政府軍の参謀・世良修蔵らにことごとく握りつぶされ、武力抗戦以外の選択肢を奪われていきます。

1868年8月、新政府軍は母成峠の防衛線を突破し、怒涛の勢いで会津若松城下へ突入。予備兵力として召集されていた16〜17歳の少年たちで構成された「白虎隊(士中二番隊)」20名は、飯盛山へと退却を余儀なくされます。

飯盛山から眼下を望んだ隊士たちは、黒煙に包まれる若松の城下町を目撃しました。城が落城したものと誤認した隊士たちは、生きて敵の捕虜となる屈辱を拒み、その場で自刃を選びます。唯一生き残った飯沼貞吉の手記および後年の証言によると、当時の状況は以下のように伝えられています。

「城下が激しく炎上し、天守閣が黒煙に見え隠れするのを見て、城はすでに落ちたと思い定めた。『武士らしく潔く腹を切って主君に殉じよう』と全員で決議した」

実際には鶴ヶ城は落城しておらず、頑強に持ちこたえていました。しかし、敵味方の混乱と通信手段の完全な途絶という「情報断絶」が、少年たちの早すぎる命を奪う結果となったのです。さらに城内では、山本八重(後の新島八重)がスペンサー銃を手にして自ら弾丸を装填し奮戦するなど、婦女子や高齢者までもが総力戦に巻き込まれました。会津藩の戦死者は約3,000人に達し、戊辰戦争の中で最も深い爪痕を後世に残すことになりました。

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