竹島の場所はどこ?隠岐・韓国との衝撃の距離と知られざる真相を徹底解説

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現在に至る対立の直接的な引き金となったのは、昭和27年(1952年)1月18日に韓国の李承晩(イ・スンマン)大統領が一方的に宣言した「海洋主権宣言」(通称:李承晩ライン)です。

当時、日本は第二次世界大戦後の連合国軍による占領下にあり、主権を回復するためのサンフランシスコ平和条約の発効(1952年4月28日)をわずか3カ月後に控えていました。外交権を持たない日本の無力な状態を突き、韓国政府は公海上に勝手な境界線を引き、その内側に竹島を取り込んだのです。

サンフランシスコ平和条約の起草過程において、韓国側は米国に対し「日本が放棄すべき領土に竹島(独島)を加えてほしい」と正式に要請していました。しかし、米国務省のディーン・ラスク次官補は1951年8月10日付の極秘公電(通称「ラスク書簡」)において、以下のように明確に通告して要求を断固拒絶しました。

「ドック島(竹島)は朝鮮の一部として取り扱われたことは一度もなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島庁の管轄下にある」

国際条約上、竹島が日本の領土として維持されることが確定したにもかかわらず、韓国側は李承晩ラインを越えた日本の漁船を次々と拿捕しました。外務省の記録によると、拿捕された日本漁船は328隻、抑留された日本人漁民は3,929人にのぼり、死傷者は44名という凄惨な被害をもたらしました。丸腰の民間漁船への銃撃や拿捕という暴力的な手段により、日本は日本海での安全な操業を著しく奪われたのです。

そして1954年、韓国は沿岸警備隊を常駐させ、灯台や監視所を建設。これが現在まで続く韓国による不法占拠の始まりでした。日本政府は一貫して抗議を行い、1954年、1962年、2012年と計3回にわたり国際司法裁判所(ICJ)への共同付託を韓国側に提案していますが、韓国側はいずれも付託を拒絶し続けています。

木村 陽翔

木村 陽翔

テックライター兼ウェブディレクター

デジタルガジェットとスマート家電の検証記事を多数執筆。失敗しないモノ選びを提案します。

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