十和田湖「乙女の像」はなぜ2体向かい合う?隠されたモデルの真相を徹底解説
湖畔の波打ち際で、薄く開いた両手をわずかに触れ合わせるように対峙する2体の裸婦像。この独特の構図には、高村光太郎が追求した近代彫刻の神髄と、深い精神的意図が込められています。十和田湖乙女の像の由来と歴史を紐解くと、制作の発端は1953年(昭和28年)10月、十和田国立公園指定15周年を記念する事業にありました。
当時、十和田湖の国立公園指定に尽力した文人・大町桂月、元青森県知事・武田千代三郎、地元村長・小笠原耕一の3氏の功績を称える顕彰碑の制作が持ち上がりました。依頼を受けた光太郎は、偉人の胸像を並べる旧来の手法を固辞。「国立公園の豊かな大自然そのものを讃え、湖の美と調和する象徴的な芸術作品でなければならない」と主張し、神聖な女性美を表現したモニュメントを構想したのです。
最大の謎である「乙女の像はなぜ2体なのか」という問いに対し、光太郎自身は「互いに相寄る二つの存在が、空間の中に緊張感と調和を生み出す」という趣旨を語っています。これは美術解剖学や空間構成論における「鏡像(ミラーイメージ)」の技法であり、自分自身の内面と向き合う姿を具現化したものです。1体だけでは単なる湖畔の人物像に終わってしまうところを、まったく同型の2体を絶妙な距離で向かい合わせることで、2体の間に目に見えない濃密な磁場を作り出し、十和田湖の神秘的な大気と一体化させました。
そして、この像の核心に存在するのが高村智恵子です。1938年(昭和13年)、精神の失調と闘病の末に先立たれた妻・智恵子。光太郎は生涯を通じて彼女を讃える詩を紡ぎ続け、名詩集『智恵子抄』を残しました。70歳を迎え、体力の限界と闘いながらノミを振るった光太郎にとって、この像は智恵子の魂を永遠の自然の中に解き放つための祈りそのものでした。
制作当時、十和田湖乙女の像モデルとして実際にアトリエに立ったのは、19歳の若い女性(藤井照子氏ら)でした。しかし、関係者の証言によると、光太郎は制作中に像の顔部分を白い布で覆い、肉体のリアリズムを写し取りながらも、顔の造作には記憶の奥底にある智恵子の面影を刻み込んだと伝えられています。実在のモデルの瑞々しい肉体美と、光太郎の魂に焼き付いた智恵子の神聖なイメージが融合したからこそ、時代を超えて人々を惹きつける傑作が誕生したのです。