なぜ東大卒エリート尾崎放哉は全てを捨てた?小豆島で迎えた孤独な最期の真相
Q1:尾崎放哉の俳号(名前)の由来は何ですか?
A1:本名は「尾崎秀雄」です。「放哉(ほうさい)」という俳号は、第一高等学校(一高)時代に使い始めました。「物事にこだわらず気ままに生きる」「放蕩無頼」といったニュアンスを含む言葉であり、自らの自由奔放な気質を投影して名付けられたと伝えられています。
Q2:尾崎放哉と荻原井泉水はどのような関係だったのですか?
A2:荻原井泉水(おぎわら せいせんすい)は一高時代の同窓であり、自由律俳句誌『層雲』を創刊・主宰した生涯の師友です。放哉がすべてを失って放浪・寺男となった際も、生活費を工面し、小豆島の南郷庵の斡旋に奔走するなど、放哉の才能を誰よりも信じて物心両面で支え続けました。放哉の死後、その遺句集『大空』を編纂・出版したのも井泉水です。
Q3:尾崎放哉記念館の見どころとアクセス方法は?
A3:香川県小豆郡土庄町にある「尾崎放哉記念館」は、放哉が最期を過ごした西光寺奥の院・南郷庵の隣接地に建てられています。直筆原稿や遺品、復元された庵の部屋を見学できます。アクセスは、高松港や新岡山港などからフェリーで小豆島・土庄港へ渡り、そこから徒歩約15分、または路線バスで数分です。
Q4:種田山頭火と尾崎放哉は直接会ったことがありますか?
A4:生涯で一度も直接対面したことはありません。同じ『層雲』の門下生としてお互いの作品を誌面で強く意識し合っていましたが、放哉が1926年に40歳で亡くなった当時、山頭火は本格的な行脚生活を始めたばかりでした。山頭火は放哉の死を知った際、「放哉よ、君は逝ってしまったか」とその死を深く悼み、のちに小豆島にある放哉の墓を訪れて涙を流しています。