麻生太郎の若い頃は俳優級のイケメン!五輪出場と華麗なる名門の武勇伝
華麗な学歴や五輪代表という肩書き以上に、麻生太郎氏の人間的厚みを決定づけたのが、20代後半における西アフリカ・シエラレオネでの過酷な駐在経験です。
当時、麻生家が関与していた現地法人において、ダイヤモンド採掘の現場監督として西アフリカに派遣されました。エアコンもない熱帯の密林で現地の鉱夫たちと寝食を共にし、マラリアの危険や政情不安と隣り合わせの日々を約2年間過ごしました。麻生氏自身が回顧録で語ったところによると、現地で内乱・クーデターが発生した際には、銃声が響く混乱の中で車を走らせて脱出を図った経験すらあったといいます。
帰国後の1973年、わずか33歳で麻生セメント(現・麻生)の代表取締役社長に就任します。エネルギー革命によって祖業の石炭産業が壊滅的な打撃を受ける中、企業構造の転換を断行し、数千人の雇用を守る重責を担いました。労働組合との激しい団体交渉の場では、社長自らが作業着姿で膝を突き合わせ、徹底して現場主義を貫きました。
「坊ちゃん育ち」の政治家が往々にして陥りがちな机上の空論を嫌い、体当たりで現実と向き合う姿勢は、アフリカのジャングルと九州のセメント工場というタフな現場で醸成されたものです。若い頃の写真に見られるどこか不敵な笑みや自信に満ちた佇まいは、こうした修羅場をくぐり抜けてきた男だけが持つリアリズムの表れといえます。