雷電為右衛門はなぜ横綱になれなかったのか?勝率9割6分の真相
雷電が横綱になれなかった真相を紐解く最大の鍵は、「当時の横綱は番付の地位(階級)ではなかった」という歴史的事実にあります。
現代の大相撲では、横綱は大関のさらに上に位置する独立した最高位です。しかし、江戸時代後期の番付における最高位はあくまで「大関」でした。横綱とは独立した階級ではなく、大関の中から選ばれた特別な力士にのみ、土俵上で白い注連縄を締めて土俵入りを行うことが許される「名誉免許(称号)」に過ぎなかったのです。
そして、この横綱免許を差配していたのが、京都の公家につながる相撲の名門・熊本藩主細川家ゆかりの「吉田司家(よしだつかけ)」でした。ここから、江戸時代特有の複雑な武家社会の権力力学が絡み合ってきます。
第一に、大名同士の格式と配慮の問題です。雷電は信濃国(現在の長野県東御市)出身ですが、出世に伴い出雲国松江藩(現在の島根県)のお抱え力士となりました。当時の松江藩主は名君として名高い松平治郷(不昧公)です。雷電は藩から破格の厚遇を受け、実質的な武士階級として扱われていました。一方で、吉田司家から初代・2代目の横綱免許を公認された谷風梶之助は仙台藩、小野川喜三郎は久留米藩のお抱え力士でした。
相撲史研究者らの文献検証によると、谷風と小野川に免許が授与された寛政元年(1789年)当時、吉田司家は自家の相撲界における家元権威を幕府公認のものとして固めようと画策していました。谷風の死後、実力だけで言えば雷電への免許授与は当然視されるべきでしたが、松江藩と吉田司家、さらには幕府や他藩との間で「あえて名誉称号を申請・推挙する積極的な政治的動機」が噛み合わなかったとされています。
第二に、雷電本人の認識と陣営のスタンスです。大関こそが力士の最高峰であるという伝統的観念が根強かった当時、無理に大金を積んだり政治的工作を行ってまで吉田司家から「横綱免許」を取得する必要性を、松江藩も雷電自身も感じていなかったという見解が有力です。実力において誰一人及ぶ者がいない以上、名目上の注連縄免許など不要であるという、大関としての強烈な矜持があったと推察されます。