蘭奢待とは?信長ら天下人が切り取った名香の正体と香りの秘密
これほどまでに人々を狂わせた蘭奢待ですが、「展示ケースの前に立つと良い香りが漂ってくるのか?」というと、現実は全く異なります。
取材に基づく客観的な科学的事実として、沈香や黄熟香は「常温ではほとんど匂いがしない」という性質を持っています。木の中に浸透した樹脂は常温下で固化しており、揮発成分が空気中に放出されないためです。実際に正倉院展で蘭奢待を至近距離で観覧した鑑賞者たちからも、「ただの古い朽ち木の塊に見えた」「香りは全く感じられなかった」という声が聞かれます。
真価が発揮されるのは、火の熱を加えた瞬間です。香道における「聞香(もんこう)」と呼ばれる作法では、銀葉(ぎんよう)という極薄の雲母板の上に米粒ほどの大きさに削った香木を乗せ、下から炭団の熱をじわりと伝えます。
熱せられた蘭奢待が放つ香りについて、香道の伝書や明治天皇が焚かせた際の宮内省の記録、専門家の証言を統合すると、次のような極めて複雑で高貴な特徴が浮かび上がります。
香道には香りを分類する「五味(甘・酸・辛・苦・鹹)」という表現基準があります。蘭奢待の芳香は、はじめに清涼感のあるわずかな苦味と辛味が鼻腔を抜け、後からキャラメルのような濃厚な甘みと、森の深奥を思わせる温かみのある樹脂の薫香が重層的に広がるとされています。人工的な香水のような直接的な甘さではなく、何層もの自然の時間が重なり合った、静謐でどこか厳かな香りです。
大久保利通の日記や関係資料によれば、明治天皇が東大寺東南院で蘭奢待を焚かれた際、その香気は部屋中を清め、退出した後も数日間にわたって衣服にほのかな移り香が残り続けたと伝えられています。