なぜ埼玉の中に東京が?練馬区飛び地「西大泉町」の真相と日常を徹底解説
なぜこのような不可解な境界線が引かれたのか。そのルーツを辿ると、江戸時代の農地開拓と明治維新後の近代行政機構の形成期に突き当たります。
江戸時代、この地域一帯は武蔵国新座郡片山村(現在の新座市片山)と武蔵国豊島郡上土支田村(のちの大泉村、現在の練馬区西大泉周辺)の入会地や新田が複雑に入り組んでいました。当時、農民たちは居住地から離れた場所に農地を所有する「出作(でづくり)」を頻繁に行っていました。現在の西大泉町1179番地周辺の農地を所有・開墾していたのは、片山村の農民ではなく大泉側の農家だったと伝えられています。
決定的だったのが、明治22年(1889年)の市町村制施行に伴う行政区画の再編です。当時、土地所有者の帰属意識や地租の納付先をベースに境界が策定された際、所有者が大泉村の住民であったことから、周囲を新座郡に囲まれているにもかかわらず「大泉村の土地」として登録されました。さらに明治24年(1891年)、埼玉県新座郡榑橋村・新倉村の一部が東京府北豊島郡大泉村へ編入されるという大規模な県境越えの合併が発生します。この激動の再編劇の中で、新座側に深く取り残された当該区画だけが境界変更から漏れ、島状の飛び地として固定化されてしまったのです。