東本願寺と西本願寺はなぜ分裂したのか?家康の思惑と衝撃の真相を徹底解説

東本願寺と西本願寺はなぜ分裂したのか?家康の思惑と衝撃の真相を徹底解説の真相について、最新情報を詳しくお届けします。

東本願寺と西本願寺の分裂を紐解く鍵は、安土桃山時代から江戸時代初頭にかけての激動期にあります。浄土真宗の宗祖・親鸞聖人(1173〜1262年)の教えを受け継いだ本願寺は、室町時代後半の第8代宗主・蓮如の時代に爆発的な勢力拡大を遂げました。その結束力と軍事力は戦国大名を脅かすほどに成長し、やがて織田信長との間で10年に及ぶ泥沼の「石山合戦(1570〜1580年)」へと突入します。

この合戦の終局において、教団内部に深刻な亀裂が生じました。信長との和議を受け入れて石山(現在の大坂城の地)を退去しようとする第11代門主・顕如(けんにょ)に対し、血気盛んな長男の教如(きょうにょ)は徹底抗戦を主張して籠城を継続。最終的には教如も退去を余儀なくされたものの、この判断の違いが「穏健派」と「強硬派」という埋めがたい派閥対立を生み出しました。

顕如の没後、一度は教如が第12代を継承したものの、母・如春尼の訴えや豊臣秀吉の介入によって教如は退隠させられ、弟の准如(じゅんにょ)が本願寺を継ぎます。これが現在の西本願寺(浄土真宗本願寺派)の母体です。失意の教如に転機が訪れたのは、関ヶ原の戦いを経て天下の覇権を握った徳川家康の台頭でした。

家康は、かつて三河一向一揆で自らを死の淵まで追い詰めた一向宗の爆発的なエネルギーを極度に警戒していました。「本願寺門徒の強大な信仰心を一極集中させてはならない」と考えた家康は、1602年(慶長7年)、隠忍自重していた教如に対して烏丸七条の広大な土地を寄進。独立した本願寺の建立を公認・後押ししました。これによって教団勢力は東西に真っ二つに分断され、徳川幕府にとって無力化されることとなったのです。教如を祖とする陣営が現在の真宗大谷派(東本願寺)であり、准如の系統が本願寺派(西本願寺)として今日まで続いています。

関連記事